【序章】現代の少年と夢の列車

北国の三月末、風はまだ冬の名残を含んでいた。校舎の窓を鳴らすその音には、雪解けの冷たい匂いが混じっている。窓の向こうでは夕陽が差し込み、木の床が温かく輝きを返していた。道場では剣道部の掛け声が最後の余韻を残し、放課後の空気がゆるやかにほどけていく。

 柊(しゅう)は竹刀袋を肩にかけながら昇降口を出た。校門の外にはまだ雪が少し残っており、溶けた水が夕陽を反射してきらめいていた。十四歳の少年。少し伸びた黒髪が額にかかり、周りの子よりも透けるように白い肌には練習の汗が残っている。瞳は茶色がかっていて、真っすぐな輝きを宿していた。制服の襟を整え、仲間たちの笑い声を聞く。みんながふざけ合いながら、コンビニだのゲームだの、明日の話で盛り上がっていた。

 「おまえ、明日も朝練来るんだろ?」  「たぶん。……寝坊しなければね。」  「またかよ。ペナルティで素振り百回な!」

 冗談交じりの声に、柊も苦笑した。笑いながら肩をぶつけ合う。陽が長く、街全体がオレンジ色に染まっていた。そんな、どこにでもある春の帰り道だった。

 柊は胸元に手をやり、ペンダントを指先でなぞる。銀色の鎖の先に小さな透明の石が揺れていた。輝きを受けるたびに青にも金にも見えるそれを、彼はいつから持っていたのか思い出せない。

 家に帰ると、夕飯の香りが迎えてくれた。台所からは煮物の湯気と油の香りが漂い、食卓の上には柔らかな灯が広がっている。食器が触れ合う小さな音が響き、母の声が重なった。「おかえり、柊。疲れたでしょ?」  「うん、まあね。」

 湯気の立つ味噌汁の匂い、テレビの音、父の咳払い。すべてがいつも通りだった。

 食事を終え、自室へ向かう。胸元で小さく揺れ動くペンダントが淡い光を受け、まるで何かを予感しているようにきらめいた。それは、まだ知らぬ旅立ちを静かに告げているようだった。

 ベッドに身を沈め、目を閉じた瞬間、耳の奥で何かが囁く。

 ――「もうすぐ、繋がるよ。」

 はっと目を開けた。部屋の中は静かだった。時計の針が動かない。外の風が止まり、世界が息を潜めている。時間そのものが凍りついたようだった。カーテンの揺れも止まり、街の灯も静止している。柊だけが動ける世界の中で、彼の呼吸だけがかすかに響いた。

 ふと眺めた窓の向こうに、見えるはずのないものがあった。住宅街の奥から、ゆっくりと近づいてくる淡い光。最初は小さな明滅だったが、次第に形を帯びて線路の上を滑るように進む。古びた列車が音もなく現れ、鈍い銀色の車体が夜気を纏いながら静かに停まった。世界がわずかに歪んで見えた。

 柊は息を飲んだ。足元が震える。それでも目を離せなかった。列車の扉が音もなく開く。誰もいないはずなのに、そこから風が流れ出し、髪を揺らす。

 無意識に玄関の扉を開けていた。夜気は頬を刺すように冷たく、吐く息が白く揺れる。踏みしめるアスファルトの感触が妙に現実的で、夢との境目が分からなくなる。

 線路の前に立つと、柊の喉が小さく鳴った。胸が上下し、冷たい夜気を吸い込む。手の中の震えを抑えきれないまま、ペンダントが輝いた。まるで呼応するように列車のランプが明滅し、車体の表面に刻まれた古い文字がゆっくりと浮かび上がる。

 『旅は再び、記憶を超えて』

 その瞬間、世界が音を失った。風も、鼓動も、遠ざかっていく。柊の視界が白に包まれ、意識の奥で何かが動き出す。

 ――列車が走り出す。どこへ向かうのかも知らぬまま。

 夜の青が薄れ、見たことのない淡い光が視界を包む。柊の胸が高鳴り、言葉を失うほどの静けさが広がった。恐怖はなく、懐かしい夢に包まれるような安らぎだけがあった。

 これは夢ではない。胸の奥が静かに脈打ち、光の粒がまぶたの裏を流れていく。息を吸い込むと、冷たい空気が甘く感じられた。世界が音もなくほどけ、色と匂いのない場所へと変わっていく。

 そして、少年の旅が静かに始まった。

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