第1章 第1節 雪灯《ゆきあかり》の街

夜の街は、静かに息をひそめていた。粉雪が舞い、凍てついた石畳には、街灯の灯りがやわらかく反射している。川沿いに並ぶ古い石造りの倉庫と家々の屋根は、琥珀色の光を受けてほのかに輝き、流れる水面には光の帯がゆらいでいた。雪灯《ゆきあかり》が一つ、また一つと灯り、人々の影を細く長く伸ばしていく。誰かの足跡はすぐに雪に飲まれ、静寂だけが残る。閉ざされた窓の奥では、橙の灯がかすかに瞬き、凍える夜をそっとあたためていた。

 そのひとつ――宿の二階の部屋。窓のそばに机を置き、一人の少女が古い本を開いていた。机の上の油皿の火が、紙の上に金色の光を落としている。分厚い古文書はページの端が少しこわれかけており、彼女は眠い目をこすりながら文字を追った。

 見たことのない文字たちが、ずっと昔の秘密を隠しているようだった。少女は、辞書のように書き写した古代文字の一覧をめくりながら、胸の奥にわずかな期待を抱いた。知らない文字を解くたびに、過去の自分に少し近づける気がする――そんな思いが、彼女を机に向かわせ続けていた。、似た形を探す。点と線の並びが少しずつ頭の中で繋がっていき、単語の意味を小さくつぶやく。「……これは“水”、そして……“記憶”?」 読み取れたのはほんの一部だけ。それでも、ページの奥に息づく何かが近づいてくるように感じた。

「いつか、この本の意味がわかる日が来るのかな。私の記憶とも、関係があるのかもしれない」

 彼女は小さくつぶやいた。声は小さく、火の音にまぎれて消えてしまった。けれど、その小さな言葉が、自分の心を少し温めた気がした。

 今日はここまでにしよう――ページに栞を挟み、本を閉じる。夜は長い。でも、夜が明けないことはない。ユキミアは火を消し、窓の外の白い世界を見つめた。雪がふわりと舞い、音もなく積もっていく。

 彼女の名前はユキミア。青い魔導士帽をかぶり、黒髪のセミロングと白い肌を持つ。丸い瞳には雪明かりを映したような光が宿り、青いローブの袖とマントには雪の結晶の模様が縫い込まれていた。首には「310」のお財布マークの刺繍が入った水色のマフラーを巻き、足もとは黄色のブーツで包まれている。その顔立ちはニンゲンに近いが、頬や耳のあたりに柔らかな羽毛の名残があり、口元は小さなくちばしのように黄色みを帯びていた。雪国に生きる鳥の面影を残しながらも、繊細で知的な印象を与える。

***

 〈かき氷帝国〉と呼ばれるこの国には、さまざまな獣人たちが暮らしている。遠い昔、ニンゲン族は滅びたとされ、今では古文書や古い詩に名前が残っているだけだ。帝国内には多くのズーネスが暮らし、さらにその中でも獣の特徴が薄れ、ニンゲンに近い姿をした者たちはルズーネスと呼ばれている。だが、その数は少なく、街で見かけることはめったにない。

 ユキミアが暮らす町――ユーフロストは、帝国の最北に位置している。一年のほとんどが雪に覆われ、氷の精霊が息づく土地だ。人々は白い息を吐きながら、静かにこの寒冷の街で暮らしている。

 今日もユーフロストの空気は、吸いこむと胸が痛いほど冷たく澄んでいた。石畳の道には雪がうっすら積もり、歩くたびにキュッと音が鳴る。通りには雪灯《ゆきあかり》が並び、薄い朝の光を受けて小さくゆれていた。屋根には白い雪の波が積もり、人々の吐く息が空に消えていく。

 広場では祭りの準備が進んでいた。氷で作られた彫り物に布をかける兎族の若者や、湯気の立つ鍋をかきまわす狸族のおばあさん、荷車を引く鹿族の男たち。にぎやかな声が飛び交う中、少し沈んだ話題も混じる。

 パン屋の狐族の店主が、店先から笑顔で手を振った。「おや、ユキミアちゃん、今日も早いねえ。」 「おはようございます。いい香りですね、もう焼けたのですか?」 「ほら、焼きたてだよ。ここ最近、祭りの準備でみんなこぞって買っていくから、いつもより多めに焼いてるんだ」  そのやり取りに、隣の八百屋の熊族が木箱を運びながら笑った。「まったく、パンの香りで仕事にならないよ。」と冗談めかしながらも、少し声を落とす。「そういえば聞いたかい? 税がまた上がるらしいって話だ。」 「ほんとですか? ……皆さん、大変ですね。」ユキミアが眉を寄せると、熊族の男はうなずいて肩をすくめた。 「北の山で黒い光を見たって人もいるらしい。まさか、魔王が現れたなんて話が本当だったりしてな。」  周囲の会話に小さなざわめきが広がるが、すぐに日常の明るさに戻っていく。通りの向こうから、魚を売るイルカ族の青年が氷桶を運びながら声をかけてきた。「ユキミアさん、今日もスプーン亭ですか?」 「ええ、今日も依頼を受けようかと思って。」 「頼もしいですね。この前、うちの弟が転んでけがをしたとき、あなたに助けてもらったって言ってましたよ。」 「いえ、たいしたことではありません。皆さんが無事なら、それで十分です。」ユキミアが微笑むと、青年は少し頬を赤くして笑った。  すれ違いざまに果物屋の老婦人が手を振る。「ユキミアちゃん、風邪ひかないようにね。冷える季節だから。」 「ありがとうございます。おばあさんも、無理はなさらないでくださいね。」  さらに、パン屋の奥から少年が顔を出す。「ユキミアさん、今度の祭りでも、また休憩所を出すんですか?」 「ええ、今年もね。みんなが安心して楽しめるように。」  そんな他愛のないやり取りが、朝の通りに笑い声を生んでいく。ユキミアは街の誰からも親しまれていたが、彼女の来歴を知る者はいなかった。彼女自身も記憶を失っていることを知っており、その事実に初めは戸惑いもあったが、今では静かに受け入れていた。自身がどこから来たのか、何者なのかを知らない。ただ、目覚めたとき手にしていたのはこの古文書だけだった。彼女は今日もまた、ギルド支部《スプーン亭》へ向かって歩き出す。

 角を曲がると、匙の形をした木の看板が見えた。ギルド支部《スプーン亭》。ユキミアはマントの裾を払って中に入った。外の寒さが一気にやわらぐ。

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