夕暮れが迫る港町《マリネル》は、昼の喧騒を名残に残しながら、海と空の境がゆっくりと茜へ溶けていく時間帯に入っていた。市場では片づけの声があがり、潮風に揺れる布が夕光を受けて揺らめく。穏やかな気配が街を包みつつあった、そのときだった。
「魔物だーっ! また出たぞ! 今日は海からだ!」
甲高い叫びが、静まりかけた港に突き刺さる。だが、住民たちの反応は驚きよりも、うんざりした表情の方が早かった。
「ったく、今日は魚の調子がいいと思ったのに……」 「最近、多すぎんだよな。網、また破られっぞ……」 「おーい、ギルドにも連絡しとけよ! さっさと倒してもらえ!」
慣れた不満の声が広がる一方で、別の路地では一斉に駆け出す足音が響き始めていた。魔物は脅威であると同時に、冒険者にとっては報奨金と素材を得られる稼ぎ場でもある。ゆえに、魔物の出現は“早い者勝ち”の競争でもあった。
孤児院の前で騒ぎを聞きつけたハータとエーリャが顔を見合わせる。エーリャはすぐさま斧を構えた。
「ハータ、あんたの得意分野だろ。行くよ!」 「……夕飯前に汗かきたくねぇんだけどな。」
口ではぼやきながらも、ハータは槍を手に路地を駆け出した。ふたりが《影》の外れにたどり着くと、漁具を引き裂きながら暴れる魔物の姿があった。灰色の皮膚にぬめりがあり、魚の鱗とひれが歪に混ざっている。
「……前はネズミだったのによ。で、今回は魚か。ほんと統一感ねぇな……」
“半魚人”を思わせる魔物は、理性を欠いた本能だけで荒れ狂っていた。
「エーリャ、正面から抑えろ。足を止めてくれ。」 「任せて!」
エーリャが魔物の懐へ踏み込み、斧の柄でその動きを押し返す。勢いを削がれた魔物はよろめき、地面に縫いとめられたように動きが鈍った。
その隙を逃さず、ハータは横から身を滑り込ませ、槍の穂先を深々と突き立てた。短い呻きとともに力が抜け、魔物はずるりと重い音を立てて崩れ落ちた。
「よし、素材は売れるな。」 「そこそこの金になる。」
そんな実務的な会話を交わしながら、ハータは魔物の身体に絡まった麻袋に気づいた。袋からは金貨が散らばり、夕陽を受けて鈍く輝いている。その金の光に混じって、濃い赤に染まった紙片がひらりと風に揺れた。
「……おいおい、これ……金貨がザックザクじゃねぇか。ざっと見ても百五十万syrは軽く超えてるぞ……! それと……手紙?」
拾い上げた紙は血に濡れ、端が裂け、文字の多くは読めなくなっていた。それでも――その筆跡だけは見間違えようがなかった。
弟の字だ。
ハータの手が震え、喉がひゅっと狭まる。エーリャが横からのぞき込み、小さく眉を寄せた。
「ハータ……どうしたの?」
返事はなかった。ただ、血で滲む紙をゆっくり開いた。
――俺は知ってはいけない秘密を知ってしまったかもしれない。
――この国の皇帝が●●れ●いるなんて。
――まさか魔物の●●が●ー●●だったなんて。
――もう俺は●●に●●ら●るかもしれない。
――魔物は●●へ●か●習性があるらしい。
――運よく兄貴に、この手紙とお金が届くことを祈る。
――最後に……昔、兄貴と一緒に読んだ《しろとくろ》を覚えてるか。やっぱり俺は“くろ”だったよ。
そこまで読んだところで、ハータは息を詰まらせた。
風が吹いても暑さは和らがず、胸の奥が灼けるように熱い。手紙の残滓が、弟の声のように耳の奥で震え続ける。
「……弟は……」
言葉にならない声がこぼれた。
魔物の足元には、引き裂かれた布切れと、弟が昔つけていた小さな腕輪が転がっていた。
エーリャは息を呑んだ。 「……まさか、この魔物に……弟くんが……」
否定する材料は何ひとつなく、希望を繋ぐ根拠もひとつもない。
ハータは血に染まる紙を握りしめたまま、立ち尽くした。港のざわめきも、孤児院の子どもたちの笑い声も、遠ざかっていくように薄れていく。
波の音だけが、胸の痛みと同じリズムで響いていた。



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