スプーン亭の朝は、パンの焼ける匂いとベーコンの焼ける匂いがまじる独特のあたたかさに包まれていた。ここスプーン亭はギルド支部と食堂を兼ねており、冒険者たちにとっては仕事の拠点であり、同時に心休まる憩いの場でもある。木の床を踏む音、氷のカップに注がれる水の音、そして人々のざわめきが重なり合い、まるで街そのものが息づいているようだ。窓の外では粉雪が舞い、通りを行き交う獣人たちの白い息が、朝の光に溶けて消えていく。ギルドの中はその冷気とは対照的に、暖炉の火がゆらめき、あたたかな空気が満ちていた。
ユキミアは入り口でマントの雪を払うと、受付のカウンターに立つ山羊族の店主に軽く会釈した。「おはようございます」
「おや、ユキミアさん。昨夜も遅くまで本を読んでいたんじゃないですか?」
笑いながら言う店主に、ユキミアは少し照れくさそうに微笑んだ。「ええ、つい夢中になってしまって……。でも、読めば読むほど謎が増えるばかりです」
「知識を求めるのはいいことですよ。あなたのような人がいると、この街も安心です」
店の奥では、白い毛並みのシロクマのズーネス――しろまるが椅子に腰かけていた。重装の鎧の上から厚手のマントを羽織り、穏やかな眼差しで周囲を見守っている。その姿はどこか安心感を与え、周りの冒険者たちも彼に敬意を払っていた。若い者が通りすぎるたびに軽く会釈し、彼も静かにうなずき返す。場に漂う信頼の空気は、しろまるという存在が築いてきたものだった。
「今日も冷えるな。……で、依頼は決まったか?」 「まだです。掲示板を見てみようと思って」
ふたりは壁際の掲示板へ歩み寄った。そこには紙が何枚も重ねられ、角が丸くなっている。古い依頼書の上から新しい紙が貼られ、街の変化を映すように並んでいた。搬送や採集などの依頼はEやDランクに分類され、報酬は控えめでどこか生活の匂いがした。市場で使う木箱の修理、雪道の除雪手伝い、薬草採取――人々の暮らしを支える小さな仕事ばかりだ。
一方で、魔物討伐や要人警護、納税補助や徴税補佐といった国の制度に関わる依頼はCやBランクの熟練者向けで高額報酬だった。冒険者たちは札をじっと見つめながら、自分の実力にあった依頼を探す。当然、報酬の大きい依頼に心は引かれる。だが上級者であればあるほど、見合った危険を受け入れる覚悟と、無謀にならない判断力の両方が求められていた。
ユキミアはひとつの紙に目を止めた。「Eランク:西の森で薬草を採取。依頼主:ユーフロスト薬師会。報酬:5000syr。」
「地味な仕事だな」としろまるが言った。ふたりはCランクの冒険者であり、より高額な任務も請け負える実力を持っている。しろまるは腕を組み、ユキミアを見下ろすように問いかけた。「もう少し稼げる依頼にしてもいいんじゃないか?」
「けれど、祭りの時期はけが人が増えます。薬が足りなくなったら困りますから」
ユキミアの言葉は柔らかく、それでいて芯の通った響きを持っていた。しろまるは少し目を細め、「なるほど。……だがボランティアもほどほどにな」と呟く。
「はい。でも町のみんなの役に立ちたいので」
受付で依頼書を提出し、必要な道具を受け取る。ユキミアは小箱を開け、包帯と薬草袋の数を確かめた。しろまるは盾の留め具を調整し、背負いなおす。鎧の金具がわずかに鳴り、朝の光を受けて鈍く光った。
「準備はいいか?」 「はい。西の森までは三十分ほどでしょうか」 「雪が深い。Eランクとはいえ最近は魔物も町の近くにあらわれるという。道中、油断するな」
ユキミアはうなずき、マフラーをきゅっと結び直した。窓の外からは、街の鐘が静かに鳴っている。扉を開けると、外気が頬を刺した。吐く息が白く広がり、朝の光が雪面を照らす。
「行こう、ユキミア」 「ええ。今日もいい日になりますように」
ふたりは雪灯の並ぶ通りを抜け、白い息を残しながら歩き出した。彼らの足跡が雪の上に並び、すぐに風に消されていく。やがて森の入口に着くと、雪の下に眠る薬草を探し、手際よく採取を進めた。氷の下からのぞく緑は少なく、しろまるが雪を払ってはユキミアが丁寧に袋へ入れる。その作業は一時間ほどで終わり、思っていたよりもあっけなく任務は完了した。
「今日は穏やかでしたね」とユキミアが笑う。 「まあ、こういう日も悪くない」としろまるは腕を伸ばして空を見上げた。灰色の雲の隙間から、淡い陽光がこぼれている。
ふたりはそのまま雪道を戻り、夕暮れ前にはユーフロストの街にたどり着いた。スプーン亭に報告を済ませると、報酬を受け取り、あたたかい夕食をとる。店のざわめきが心地よく、長い一日が静かに終わろうとしていた。
「そろそろ帰って休みましょうか」 「そうだな。……明日も、無事でいよう」
外では雪がまた降り始めていた。宿の窓からこぼれる灯が、白い街を照らす。ユキミアはその光を見上げながら、小さく息を吐いた。明日もまた、新しい朝がやってくる――そう信じながら。



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