その夜、風が宿の壁をかすかに叩いていた。今夜は珍しく雲が晴れ、月の光が雪の街を淡く照らしている。通りに積もった雪は銀色に輝き、静けさの中に光の粒が漂っていた。人々が寝静まった後も、宿の一室だけは小さな灯りが消えずにいた。
机の上には分厚い古文書が開かれている。ユキミアは椅子に深く腰かけ、青いマントの裾を整えながら、指先で古い紙を押さえた。油皿の炎が小さくゆれ、ページの上で金色の影が踊る。昨夜は読めなかった古代文字が、今夜はなぜか輪郭を帯びて浮かび上がって見えた。彼女の胸の奥がざわめき、眠気は跡形もなく消えていた。
「……今夜は、なぜかこのページだけ読める気がします。まるで本が、私に語りかけているみたい……。」
彼女は独り言のように呟き、羽根ペンを手に取る。辞書代わりの索引帳を広げ、古代語の点と線の形を一つずつ確かめていく。紙をめくるたび、乾いた音が静かな部屋に響く。彼女の視線は真剣そのものだった。古びた文字が、淡く光を放つように見え、彼女の心の奥に“読め”と囁く声が響いてくる。
やがて、ページの中央の一文が目に留まった。そこには滅びと再生を同時に語るような、意味深な文が刻まれていた。
“黒き災いが訪れるとき、失われし民が再び光をもたらす。”
胸の鼓動が早まり、体の奥で何かがざわつく。黒き災い――それは、あの“魔王”を指しているのだろうか。だとすれば、この文は過去に起こった出来事を示しているのか、それともこれから訪れる未来の予兆なのか。失われし民とは、かつて存在したと言われる〈ニンゲン族〉のことだろう。彼らはいったいどんな力を持ち、どうやってこの世界を救おうとしたのか。彼女の頭の中で、遠い昔の光景のような映像がぼんやりと浮かび、胸の奥にひとすじの不安と希望が交錯した。
「……ニンゲン族が、光をもたらす……? 本当に存在したのなら……彼らは、今もどこかで生きているの?……」
そう呟いたユキミアの胸に、ふと疑問がよぎった。どうして自分はこの古文書を持っていたのだろう。記憶を失う前の自分が、何かを知っていたのかもしれない。けれど、その理由は霧の向こうに隠されたままだった。
彼女はその意味を確かめようと、さらにページをめくった。そこには、黒き災いと呼応するように現れる黒い稲妻の伝承が記されていた。
“闇が空を裂くとき、眠れる王は目を覚ます。”
ユキミアの唇がわずかに開く。まるでこの記述が、今この瞬間の世界を語っているかのように。ここ最近、街の人々が語る“黒い稲妻”の噂――それもこの伝承に関係しているのではないかと、背筋を冷たいものが走った。
そのときだった。外の風が突然うなりを上げ、宿の窓を激しく叩いた。遠雷が重く響き、建物全体がわずかに軋む。油皿の炎が揺れ、壁に映る影が踊る。空気が一瞬で冷たく張りつめた。彼女は思わず立ち上がり、窓へと歩み寄る。
そして――一瞬の静寂。風も音も止まり、世界が息を潜めたようだった。
ユキミアは息を呑んだ。夜の闇よりもさらに深い、黒い稲光が空を裂いた。月の光と闇が交わった次の瞬間、通りに並ぶ街灯が一斉に消えた。闇が降り、残されたのは月明かりだけだった。その淡い光が、雪の街を静かに照らしていた。
静寂のあと、遠くで何かが砕ける音が響いた。続いて、悲鳴が上がる。「魔物が出たぞ!」「誰か助けてくれ――!」
ユキミアの心臓が激しく跳ねた。街の人々が危ない――そう感じた瞬間、彼女はマントを掴み、慌てて部屋を飛び出した。階段を駆け下りる足音が宿の静けさを破る。外のざわめきはますます大きくなり、悲鳴と怒号が入り混じっていた。息を詰めながら扉を押し開けると、月明かりが雪を青白く照らしている。夜空にはまだ黒い稲光の余韻が残り、遠くの山を淡く染めていた。
きっと、しろまるももう動いているはず。ユキミアは心の中でその名を呼ぶ。彼とともに、この異変の源を確かめなければならない。月明かりに照らされた雪を踏みしめ、彼女は街の通りへと駆け出した。



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