第2章 第1節 ヴェニソン商会の令嬢

春風が、屋根のあいだから軽やかに抜けていく。商業都市フェリアはこの季節になると街全体が色づき、石畳には花びらが舞い、露店は新作の飴細工や布染めを並べて客を呼び込んでいた。甘い香りの混じる春の空気は歩く者の心を自然と浮き立たせるが――ノーヤ・ヴェニソンにとっては、胸の奥をもやもやと曇らせる匂いに思えた。

フェリアでも指折りの商家として知られるヴェニソン商会。その令嬢として生まれたノーヤは、街を歩けば誰もが丁寧に会釈を向けてくるほどの名家の娘だった。だが、彼女にとってそれらの視線は誇りよりも枷に近かった。

「今日こそ逃げちゃおうかなぁ……」

薄桃色の外出用ドレスの裾をつまみながら、ノーヤは小さく息を漏らした。赤みがかったブラウンのセミボブ、黒目がちの大きな瞳、丸みを帯びた頬。小柄で軽やかな体つきに、細やかな刺繍入りの襟と金糸のリボン飾りが、嫌でも“令嬢らしさ”をまとわせる。背中の尻尾はそわそわと揺れ、落ち着きのなさを隠しきれていなかった。

ノーヤはこの冬、成人とされる十五歳になったばかりだ。社交界でも“大人の世界”に足を踏み入れる年頃とされ、彼女のもとにもすでにいくつか見合い話が届いている。ヴェニソン家はかつて皇帝一族との縁を望んでいたが、皇帝には一人娘の“イース王女”しかおらず、後継ぎの男子はいない。そのため政略結婚の期待は兄へと向けられ、ノーヤには最初から関心すら寄せられなかった。

形式上は、令嬢として最初の見合いをこなす必要がある――それが、今日の彼女をいっそう憂鬱にさせていた。

さらにノーヤは覚醒遺伝の影響なのか、家族の中で唯一の“ルズーネス”として生まれた。獣性が薄く、姿かたちがニンゲンに近い。その特異な外見は珍しがられることも多く、家の中ですらどこか浮いた存在だった。

令嬢教育もまた、息のつまる日々だった。立ち居振る舞い、言葉遣い、歩幅、客人の迎え方――彼女の一日は“正しくあること”で埋め尽くされている。春風のように自由に駆けたい性分には、朝から晩まで続く予定表が重くのしかかった。この日の午後には見合い、夕方には商会の式典、さらにその後は礼儀作法の復習が待っている。どうしても息苦しさが拭えない世界だった。

「ノーヤお嬢さま、そろそろ戻りましょう」

背後から静かに声がした。振り返ると、長年ヴェニソン家に仕えるフクロウ族の爺や――ローレンが、穏やかな金縁眼鏡の奥で優しい目を向けていた。父よりも母よりも、ノーヤが何を嫌い、何に胸を躍らせるかを知る人物だった。

「やだやだ!戻ったら絶対見合いコースだよね?」 「予定には……入っておりますな」 「ほらぁ!わたしもう大人なのに、どうしていつまでも箱入りなの?」

爺やは肩をすくめ、困ったような、それでいてどこか誇らしげな顔をした。

「箱入りであっても、中身が輝いておればよいのです。……ですが、お嬢さまのお心がどこを向いているか、わたしはよく存じておりますよ」

そう言って、爺やは懐から一冊の古ぼけた本を取り出した。擦り切れた表紙、丸まった角、色あせた紙。それを見た瞬間、ノーヤの胸が跳ねた。

「禁書《ケモノとニンゲンの狭間の勇者》……!上巻!!」

「古い書庫を管理する役所の倉庫に眠っていたものでしてな。商会の伝手を使い、ようやく譲り受けました。お嬢さまが探されておりましたから」

“ルズーネスの勇者パーティと魔王の戦い”を描いた古い冒険譚。発行部数こそ少ないが、その完成度の高さから一部の子供たちや冒険者のあいだで密かに語られていた。しかし一年前、理由も示されぬまま禁書に指定され、市場から忽然と姿を消した。皇族に不都合な記述があるのでは――と囁かれる、その曖昧な禁忌の気配さえも、ノーヤには心をくすぐる魅力だった。

彼女は本を抱きしめ、頬をゆるませた。

「爺や、だいすき!!」 「はは、光栄でございますよ」

読書は、今のノーヤにとって唯一“息ができる場所”だった。冒険、仲間、絆、魔王退治――どれも令嬢の生活とは無縁で、心を遠くへ連れ出してくれる世界だった。

「ねぇ爺や。本を読んでるとね、思っちゃうの。いつか本みたいに、ぜーんぶ冒険してみたいって!」

春風が彼女のドレスを揺らした。爺やは静かに目尻を下げ、柔らかく頷いた。

「お嬢さま。わたくしは本来、旦那さまより“立派な令嬢に育てよ”と申しつけられております。ですが……それだけがすべてとは存じません。爺やは、いつでもお嬢さまの味方でございます。もし、そのお見合いが……お嬢さまの望まぬ“政略”であるのならば、その時こそ、ご自分のお心を大切になさってくださいませ」

胸の奥で、小さな灯がふっとともる。フェリアの喧騒が遠のき、露店の匂いも、花ざかりの並木道のざわめきも、まるで“世界の入口”のように感じられた。

(いつか……絶対に。物語みたいな素敵な冒険をしてみたいんだ……!)

まだ言葉にはできない。それでも、この思いは確かに彼女をどこかへ押し出そうとしていた。

 

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