一年が過ぎ、フェリアには例年と変わらぬ穏やかな春が訪れていた。花の香りは相変わらず風に乗って漂ってくる。それでも、ノーヤの心だけは静かに形を変えていた。ローレンから贈られた禁書は、机の上で常に開かれ、何度も読み返されたせいで角が丸くなっている。物語を追うたびに胸が高鳴り、外の世界への思いは日に日に強くなっていた。
一年前、初めてのお見合いは最悪の思い出になった。相手はヘビ族の青年。挨拶を返すたびに細い瞳で品定めするように見つめられ、その視線だけで身体がこわばった。会話といえば家柄や財産のことばかり。家に戻れば両親から「礼儀が足りない」「令嬢の自覚が薄い」と叱責され、外出も厳しく制限されるようになった。
その日から、ノーヤの生活は実質的な“軟禁”に変わった。外に出られるのは家族の許可があるときだけ。広い屋敷の敷地でさえ、自由に歩けなくなり、窓の外を眺める時間が増えていった。
そして今夜——。翌日には新しい見合いが控えている。母の言葉は冷たく重かった。
――今回も同じようなことをしたら、嫁ぐまで敷地から出すつもりはありませんよ。
胸に刺さったその一言が、ノーヤの最後の決断を後押しした。
「……もう無理。こんなの、わたしの人生じゃない」
夜更け。屋敷が静まり返った頃、ノーヤは黄色のチュニックに濃茶のショートパンツ、薄手のピンク色のマントを羽織り、軽い革のブーツを履いた。令嬢らしさは欠片もないが、動きやすさを求めた“旅支度”だ。
「おっと、危ない危ない。忘れるところだった」
小さくつぶやき、禁書をそっと小さなカバンへしまい込む。そして窓を押し開けた瞬間——。
小さな“警報鈴”がチリリと澄んだ音を響かせた。母が名目上は防犯のためにつけた仕掛けで、夜間に扉や窓が開くと必ず鳴るようになっている。その細い金属音に、巡回中の使用人がすぐ気づいた。
「お嬢様がいないぞ!」「部屋にお姿がありません!」「窓が開いています、外へ出られたのかも!」
屋敷中が一気に騒がしくなり、使用人が駆け回る。
「西口だ! 西口へ向かう影を見た!」
誰かがわざと大きな声を張り上げ、警備の者たちは一斉に西口へ駆けていく。混乱と足音が屋敷に満ちる中、ただ一人ローレンだけが静かだった。窓辺に立ち、東の空に浮かぶ星々の並びを見上げ、翼のような腕を組む。
「……ふふ。東口ですよお嬢様。どうかご無事で」
ローレンはあらかじめノーヤに伝えていた。
——今夜はどうやら西口が少々ざわつきそうでしてな。対して東口は実に穏やか……夜風もやわらかく、散歩をするにはまことに都合のよい道かと存じます。
ノーヤは闇に包まれた東口へと足を運び、人影のない門を静かによじ登って外の世界へ身を滑らせた。振り返って門を見つめ、そっとつぶやく。
「……爺や、行ってくるからね」
胸の奥で、自由の気配が確かな形を持ち始める。静かなフェリアの街道は、まるでノーヤの未来をそっと示すように、まっすぐ前へと伸びていた。



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