南方の港町《マリネル》は、一年の半分が夏といわれるほど温暖で、通りには明るい声と潮風が満ちていた。表通りには観光客向けの屋台が並び、果実酒や氷菓の香りが漂い、磨かれた石畳は陽光を受けて水面のように光っている。
だが、その賑わいを一歩外れると、景色は急に色を失った。“影”と呼ばれる貧困街である。重税の影響は最も弱い場所に容赦なく降りかかり、波止場沿いの古い家々は修繕もできず傾き、潮に焼けた壁には徴税札が幾重にも貼られ、風にめくれ上がっていた。古びた揚げ油の匂いが路地裏にこもり、表通りの清潔な香りとはまるで別の街のようだった。
マリネルは帝都から遠く離れ、中央の巡回も行き届かない。そのため魔物の出没は珍しくなく、住民にとっては“脅威”というより“日常の厄介ごと”である。倒せば報奨金になり、素材も金に換わるため、魔物はこの街に生きる者にとって皮肉にも生活の一端を支える存在だった。
その《影》の端で、ハータ・ハータは崩れかけた家の壁を槍の柄で軽く叩き、補修の具合を確かめていた。背は高く痩せ気味の体にくたびれた紺色の衣服、潮風に揺れる小さなヒレ耳。薄く伸びた無精ヒゲが表情を少しだけ鋭く見せているが、声や動きはいつものように落ち着いている。年は二十五。獣性の薄い“ルズーネス”の若い男だった。
ハータは帝国非加盟ギルド《コップ組合》に所属している。本部への上納金や厳しすぎる規制に反発した者たちが結成した独立系ギルドで、住民の生活を支えるために独自のやり方を貫いていた。ハータも魔物退治で得た金の多くを孤児院へ回し、街の底を支えるひとりだった。
「……ま、こんなもんだろ。これでしばらくは雨風がしのげる。」
家の中からイワシ族の老人がゆっくりと姿を見せ、深く頭を下げた。 「本当に助かったよ。もう誰も見向きもしない家だったのに。」
ハータは肩をすくめ、照れたように壁を軽く叩いた。 「気にすんなって。時間つぶしみたいなもんだ。」
潮風に前髪を揺らされながら、彼はひと息ついた。白めの肌には日焼けの色がのらず、疲労の影ばかりが濃く見える。寝不足なのか、悩みのせいなのか、自分でも判断がつかなくなっていた。
路地の先には、古くから子どもたちを受け入れてきた小さな孤児院がある。シルクレイ教団の司祭が院長を兼ねて運営している施設だが、財政はいつも逼迫していた。壁の塗装も屋根の修繕も後回しで、子どもたちは破れた網を繕いながら夕飯の準備を手伝っている。
ハータの姿が見えると、子どもたちはほっとしたように声を上げた。 「ハータ兄ちゃん、今日のごはんは?」 「魚が釣れたら魚。釣れなきゃ……乾パンだな。」
笑い合う子どもたち。その笑顔を見るたび、ハータは自分がここを離れない理由を再確認するようだった。守りたいという思いだけで、今日まで立ち続けている気がした。
――弟がいなくなって二年。ハータと同じハタハタ族の血を引きながら、より獣性の強い“ズーネス”として生まれた少年だった。二人は孤児院で育ち、互いに支え合いながら生きてきた。成人してからも、孤児院の子どもたちのために力を合わせて働いていた。
弟と二人で暮らしていた幼い頃、夜になるとよく《しろとくろ》という小さな絵本を読んだ。国でいちばん強い黒き剣と、いちばん守りが固い白き盾――二人の騎士の物語だ。弟は「兄貴は白だな」と笑い、ハータは「お前は黒だろ」と返した。いま思えば、そのやり取りは互いの役割を自然と決めてしまっていたのかもしれない。守る者と、戦う者。子どもの遊びのつもりが、そのまま大人になっても続いていた。
だが弟は「帝都でならもっと稼げる」と笑って旅立っていった。港の端で手を振った細い背中は、潮風に揺れながら遠ざかっていった。それを最後に、便りは途絶えたままだ。
「……まぁ、どっかで飯食ってりゃいいさ。」
そう口にしておかないと、夏の青空の下で胸が締め付けられてしまう。言葉にしなければ、呼吸すらうまくできない気がした。
ハータは家々の陰に腰を下ろし、遠くの海を見つめた。満ちていく潮の音と、遠いカモメの声。その向こうで、あの弟の笑い声が聞こえた気がして、耳を澄ませずにはいられなかった。



コメント