貧困街《影》に建つ古びた孤児院は、潮風で軋む木の扉と雨漏りする屋根を抱えながらも、毎朝子どもたちの笑い声で満ちていた。粗末な食堂では小さな椅子がぎしぎしと鳴り、洗濯縄には色あせた服が揺れる。裕福とは言えないが、互いを助け合う温もりだけは絶えることがなかった。
ハータは毎朝のように顔を出し、穴の開いた桶を直し、海で拾った流木を薪にして運んだ。日雇いのギルド仕事で得たわずかな報酬も、半分以上を孤児院へ回している。大人になっても、かつて自分と弟を育ててくれたこの場所を放っておくことなどできなかった。
「ハータ兄ちゃん、これ結べない……!」 「貸せ。……ほら、こうだろ。おまえらの方が器用なはずなんだけどな。」
膝をついて手を貸すと、子どもたちはくすぐったそうに笑った。その笑顔を見るたび、胸の奥がふっと軽くなる。弟と並んでここで騒いでいた日の記憶が、波の音とともに静かによみがえるからだ。
――弟と笑い合った日々はもう戻らない。それでも、まだどこかで帰ってくるような気がしていた。
そんなある日、孤児院の前の道を、やけに元気な足音が近づいてきた。重い荷袋を肩に担ぎ、斧を片手にした獣人イノシシ族の女性が、汗をぬぐいながら歩いてくる。短くふわりとしたボブの髪が風に揺れ、無造作に上げられた前髪の下には日焼けした健康的な顔。しっかりした体つきには旅で鍛えられた筋肉が宿り、黒目がちな瞳はまっすぐ前を射抜いていた。
「……帰ってきたのか。」
ハータがつぶやくより早く、彼女は大きく手を振った。
「おーい! ハータ、いるかい!」
幼馴染のエーリャ・マーカだった。以前より肩幅も腕も逞しくなり、背中には旅で酷使された斧、腰には簡素な軽装防具。飾らず、強く、真っすぐ――昔のままの彼女だった。
「相変わらずだな、筋肉バカ。」 「あんたも相変わらずだね、ぐうたら魚。」
ふたりのやり取りに、孤児たちがどっと笑い、窓から手を振る子もいた。
エーリャは荷袋を置き、息を整えてから言った。 「久しぶりに戻ってきたらさ、あんた、まだここで働いてるって言うじゃない。……ねぇハータ。田舎の非加盟ギルドでくすぶってるより、帝都のギルドに来ない? 最近、帝都の周りでも魔物が増えてて、討伐依頼の報酬が跳ね上がってるんだ。あたしと組めば、高ランクの仕事も狙えるよ。」
ハータは眉をひそめ、古い柱に背を預けた。 「……だが、俺がいなくなったら困る奴らがいる。それに……弟も……」
視線の先で、孤児たちが破れた網を繕いながらこちらを見ている。彼らにとってハータは“兄”のような存在だった。わずかな稼ぎも、壊れた道具を直す手も、今の孤児院には欠かせない。軽い返事などできなかった。
エーリャはしばし黙り、潮風に揺れる髪を押さえながら言った。 「……あんたの気持ちはわかるよ。でもね、ハータ。いくら頑張っても、この町の状況は変わらない。重税はきっともっとひどくなる。《影》はさらに苦しくなる。……それに、弟くん、本当に帰ってくるのかな。」
返事はなかった。ハータはただ遠くの海を見つめていた。満ちていく潮の音が、遠い世界の出来事みたいに聞こえる。胸の奥に沈む重さと、それでも傍らにいる子どもたちの存在だけが、彼をこの場所につなぎ止めていた。



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