魔物を仕留めたあと、ギルドからの報奨金と、あの麻袋に詰まっていた大量の金貨を合わせると、およそ五百万syrになった。帝都ですら、庶民が一年必死に働いてようやく届く額だ。ましてここマリネル、とくに《影》では、一年働いても二百万syrに満たない者がほとんどである。その現実を思えば、この金額がどれほど破格か、痛いほど分かる。
「……こんだけあれば、孤児院もしばらくは困らねぇな。」
ハータは金貨の重みを確かめながらも、胸の奥がざわついて落ち着かなかった。嬉しいはずなのに、素直に喜べない。弟の遺した手紙の言葉が、喉奥に棘のように刺さったままだ。
“俺は知ってはいけない秘密を知ってしまったかもしれない。”
伏せ字の向こうに潜む何かを想像した瞬間、胃の奥がきゅっと縮む。あの震える筆跡が、恐怖と覚悟の境目に立たされていた弟の姿を、嫌でも思い起こさせた。
孤児院に戻ると、ナマズ族の院長が深々と頭を下げて出迎えた。
「……ハータ、こんな大金、本当に預かってしまってよいのかい?」
「いいんだよ。俺が持ってても使い道がねぇ。それに……弟が託したもんだ。」
子どもたちは金貨など知らず、夕食の準備を楽しげに続けていた。小さな笑い声と、鍋から跳ねる油の音が部屋いっぱいに広がる。その光景は、あまりにも穏やかで、あまりにも眩しかった。
――できることなら、このままでいたかった。
だが、もう戻れない。あの手紙を読んでしまった以上、目を背けるわけにはいかなかった。
「……弟は、本当に……魔物に……」
言いかけた言葉を、エーリャが腕を組んだまま受け止めた。
「見たまんまを全部信じる必要はないさ。腕輪が落ちてたのは確かに嫌な感じするけど……弟くんの字で“届くことを祈る”って書いてあったんだろ? まだ生きてる可能性、あるじゃないか。」
ハータは拳を握りしめ、手紙の端に残っていた細い筆跡をそっと思い返した。
――やっぱり俺は“くろ”だったよ。
それは、ただの言葉ではなかった。弟が最後に縋った希望であり、自分に向けられた確かな信頼――そして同時に、胸の奥を締めつける問いでもあった。なぜ“くろ”なのか。あの頃読んだ絵本を、弟はどんな気持ちで最後に持ち出したのか。答えの出ない葛藤だけが、静かにハータの心を揺らした。
「……院長。」 「ん? どうしたんじゃ、ハータ。」 「俺が子どものころ読んでた《しろとくろ》……あの本、まだ残ってるか?」
院長は少し寂しそうに目を伏せ、ひげを揺らした。 「……あれか。数年前にな、帝国が“内容に不適切あり”とか言って禁書にしてしまったんじゃ。全部、回収されてしもうた。」
「禁書……? ただの絵本だろ、あれ。」 ハータは思わず眉をひそめる。胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
「なあ、エーリャ。」
「ん?」
ハータはゆっくりと息を吸い、覚悟を押し出すように言葉を続けた。 「……俺、行くわ。帝都に。弟が見たものを……確かめに。」
「きっと、ここ最近の異様な増税と魔物の増加も何か関係してるはずだ。弟が見た“秘密”が、その裏にある気がしてならねぇ。」
エーリャは一瞬きょとんとし、それから豪快に白い歯を見せて笑った。 「やっと言ったね、このぐうたら魚。あたしは最初から、そのつもりだったよ。」
ハータは孤児院の建物を振り返った。雨漏りする屋根、欠けた窓枠、修繕を待つ壁。それでも、子どもたちの笑顔が確かに温かな光を宿していた。
「……しばらくは、この金でなんとかなる。俺の貯金も合わせりゃ、半年は余裕だ。戻るまで……頼んだぞ。」
院長は深くうなずき、静かに祈りの言葉を紡いだ。 「君が迷わぬよう、シルクレイに光あれ。」
――こうして、ハータは決意を固めた。
弟の真相を知るため帝都へ向かい、この国の“真実”を確かめるために。彼は、新たな旅へ踏み出すのだった。



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